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第5話 東京にて

last update publish date: 2026-07-31 19:00:31

 東京都内、高層ビルの三十二階。窓の外には夕暮れの街並みが広がり、ビルのガラスに橙色の光が反射していた。だが、三浦かすみの視線はノートパソコンの画面に貼りついたままだった。

 広報部のオフィスは、金曜の夜だというのにまだ半分ほど人が残っている。資料の締め切りが重なっている時期とはいえ、いつもより静かな空気が漂っていた。キーボードを叩く音が、やけに乾いたリズムで耳に残る。

 かすみは資料の最終チェックを終えると、ふと隣の部署──都市開発一課のフロアに目をやった。篤のデスクは、やはり空いていた。

 椅子の背もたれに掛けられたジャケットもない。机の端に置かれていたはずの水筒も見当たらない。まるで、ここ数日で彼の痕跡が少しずつ薄れていっているように感じられた。

「三浦さん、桐生さんなら今日も現地出張じゃないですか」

 通りすがりに声をかけてきた後輩の女性社員が、気遣うように微笑んだ。

「ああ、そうだったね。ありがとう」

 かすみは頷きながら、胸の奥で小さな違和感が膨らむのを感じていた。

 篤が例の駅前地区の担当になってから、もう三週間になる。都市開発の部署では出張自体は珍しくない。だが、最近の篤は、明らかに様子が違っていた。

 会話の途中でふと言葉が途切れることが増えた。

 休日に連絡をしても、返信が来るまでの時間が少しずつ長くなっている。

 先週、二人で会った時も、篤はどこか上の空だった。

「ねえ、最近の担当区域、何か問題でも?」

 そう尋ねた時、篤は少しだけ視線を逸らした。

「いや、特には。ちょっと住民の反発が強くて、対応に苦労してるだけ」

 その表情は、以前の彼と変わらないはずだった。

 だが、かすみは長年広報という仕事柄、人の些細な変化を見逃さない訓練を積んでいる。

 あれは、単なる仕事の疲れの色ではない。

 かすみはパソコンを閉じ、コーヒーを淹れに給湯室へ向かった。

 廊下の照明は夜モードに切り替わり、少しだけ暖色が強くなっている。

 窓から見える夜景を眺めながら、ここ数年のことを思い返した。

 篤との交際は、もう五年になる。

 同期として出会い、仕事終わりに自然と一緒に帰るようになり、気づけば付き合い始めていた。

 かすみにとって篤は、安心できる相手だった。誠実で、真面目で、無理な要求もしてこない。

 結婚という言葉も、そろそろ現実的に考える時期だと、かすみは思っていた。

 ──だからこそ、最近の違和感が、余計に引っかかる。

 給湯室でコーヒーメーカーのスイッチを押しながら、かすみはスマートフォンを取り出した。

 篤とのトーク画面を開く。

 最後のやり取りは三日前。「今週末は現地で報告書まとめてる、ごめん」という短い一文で終わっていた。

 かすみは少し考えてから、文字を打ち込んだ。

〈来週、少し時間ある? そろそろ、ちゃんと話したいことがあって〉

 送信ボタンを押す指が、いつもよりわずかに重かった。

 結婚の話を、そろそろ具体的に進めたい。そう伝えるつもりだった。

 だが同時に、かすみの中には、もう一つの問いが芽生え始めていた。

 ──篤は今、何を考えているんだろう。

 コーヒーの香りが給湯室に満ちる中、かすみはしばらくスマートフォンの画面を見つめていた。

 既読はまだつかない。

 画面の明かりが、夜景よりも冷たく感じられた。

 広報部のフロアに戻ると、同僚たちの会話が耳に入った。

「駅前の再開発、また住民説明会が荒れたらしいよ」

「桐生さん、大変だよね。あの地区、昔から反対派が強いし」

 かすみは歩みを止めた。

 篤が言っていた「反発が強い」という言葉が、急に現実味を帯びて胸に落ちてくる。

 それでも、彼が抱えているのは仕事の負担だけなのか──その確信は持てなかった。

 その夜遅く、ようやく篤から短い返信が届いた。

〈うん、大丈夫。来週末、時間つくるよ〉

 短い文面だった。

 以前の篤なら、絵文字の一つも添えてきそうなものだったが、今はそれすらなかった。

 かすみはその一文を何度も読み返しながら、自分でも説明のつかない胸のざわめきを、静かに押し殺した。

 コーヒーはすっかり冷めていた。

 かすみはカップを持ち上げ、窓の外の夜景をもう一度見つめた。

 東京の街は、いつも通り光に満ちている。

 だがその光のどこにも、今の自分の気持ちを照らしてくれるものはなかった。

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